アジャイルコミュニティで要求を表現する方法としてユーザーストーリーが頻繁に使われる。ユーザーストーリーにはひとつ以上の「受入基準」が必要だ。
先日、私は「受入基準」が明確でないため失敗してしまった。
コリアンタウンでのできごとである。うまい韓国料理をたべようと家族でコリアンタウンに出かけた。駅から10分ほどの通り沿いに、落ち着いて食事できそうな店を見つけたので、そこに入ることにした。ビールを頼み、メニューを見ると、いつもの焼き肉店にはない、数多くのメニューが並んでいる。コリアンタウンまで来たのだから、いつもと同じではもったいない。じっくりメニューをみて、鍋料理も頼むことにした。子供たちが辛い料理は食べられないから、辛くない韓国料理であることが重要だ。
おすすめマークの「カムジャタン」を指さして、店員に聞いてみた。
私:「これは辛くないですか?子供でも食べられますか?」
店員:「はい、お子さんでも召し上がれます」「味噌ベースなので大丈夫です」
それを聞いて、鍋を頼むことにした。子供たちも味噌は大好きだ。鍋は2人前からだったので、2人前で注文した。
肉厚でボリューミーなサムギョプサルを堪能した後、ぐつぐつ鍋が登場。
・・・・・
湯気の中から現われた姿を見てびっくり。
鍋の具の上には、所狭しと唐辛子がトッピングされ真っ赤である。スープにも唐辛子が浮いていて、見ただけで辛いのがわかる。
すぐ店員に、これでは子供たちが食べられない、同等の料理を頼むから、これを変更して欲しいと頼んだ。
女性の店員は厨房の方に消えていった。
しばらくすると、奥から店長らしき男性がでてきた。
「カムジャタンは辛くありません。カムジャタンは子供もフツウにたべます」
そして、「変更やキャンセルは、一切できません」とも。
いい漏れていたが、先の店員も、今の店長も韓国人である。そして場所はJR山手線沿線、新大久保駅のコリアンタウンだ。彼らが言っている「子供」とは韓国人の子供であることが容易に予想できる。
私は「コチジャンや唐辛子になれていない日本の子供」のコンテキストで話していたが、彼らにとっては「韓国で育った韓国の子供」のコンテキストであった。ちなみに、コチジャンは唐辛子味噌と言われ、店の味噌ベースという話は誤りではなかったことが後に判明した。
私は「辛くないこと。子供でも食べられること」を食べられる料理の判断基準(受入基準)としていたが、店からすると「韓国人の子供でも食べられること」というコンテキストで伝わっていたのである。
チーン。。。
反省。。。
私の韓国料理の受入基準は緩慢であった。「子供でも食べられますか?」ではなく「唐辛子は入っていますか?」にすべきであった。日本人の家庭であっても辛い料理を食べ慣れている子供もいるだろうし、「子供が食べられますか?」という質問は全くもって曖昧である。
レストランで「おいしいですか?」と聞く客を見かけることがあるが、あれと同じである。店はおいしいから出している訳である。そして、おいしいかどうかはいろんな客がいるなかで、一般化して答えるのは不可能だ。日本人がうまいと思う料理がアメリカ人には受け入れれないかもしれないし、同じ日本人同士であっても、好き嫌いもあるだろう。「辛いですか?子供が食べられますか?」とはずいぶん曖昧で無意味な質問をしてしまった・・。
受入基準とは万人にとって明快であるべきだ。辛いかどうかの主観ではなく、唐辛子が入っているかどうかの客観的な尺度で判断できなくてはいけない。「甘いですか?」ではなく「砂糖は含まれていますか?」、「お酒ですか?」ではなく「アルコール度数はいくらですか?」でなくてはならない。
つい油断して、適当に聞いてしまったが、受入基準は主観に左右されてはいけない。万人にとって明快でなくてはならない。
- あるかないか
- Yes かNoか
- 数字で示せる
受け入れ基準は、世界のすべての人にとって、客観的な尺度で示すことができないといけない。主観が入り込む余地があるなら、要求を出したほうが悪いのだ。
最終的に、私が汗をかきながら2人前のカムジャタンを完食したのは言うまでもない。
ここでのレッスンは3つだ。
- 初めての店では大量に頼まない。小さなポーションで、早い段階で「検査」する。
- 中途半端な聞き方はしない。受け入れ基準は「イエスかノー」か「数字」に限る。
- 最悪のシナリオを考えて行動する。
3については、私は味噌ベースの鍋は好物なので、子供たちが残せば食べられることが分かっていたことは幸いであった。
作り手にあいまいな要求を出すと、大変なことになってしまう。作り手が客観的に判断できるよう支援しよう。受入基準を明確化するのはビジネス側(利用者・消費者)なのである。

